多品目栽培専業農家 鶴田 安明さん

「おもしろいねぇ、農業って。毎日が発見だし、やることは同じじゃないし」

鶴田さんは定年退職した60歳から専業農家として勤しんでいます。

会社員時代から家の農作業を手伝い、退職したらすぐに出荷できるよう計画。事前に果樹を植えたり、農機具を購入したり準備していたのだそう。

現在メインで出荷しているのは米、ジャガイモ、サツマイモ、キュウリ、ビワ、梨、柑橘、マクワウリ、ピーナッツの9種類。
ちなみに柑橘だけでも、ゆうこうや柚子など約10品目もあるのだとか。

それぞれできる量は少ないけれど、どれもが主役というイメージでやっていると言います。

多品目を栽培しているため一年中準備と出荷が続き、農閑期はありません。


「味はもちろん、消費者のみなさんに手に取ってもらえる、見た目のいいものを作らないかん」と鶴田さんは表情を引き締めました

2025年5月8日の苗の様子

これまで高温障害などで2等米だったのを格上げしたいとの思いから、今年は試験的に2枚だけ例年より1か月早く田植えを敢行。
9月初旬に収穫し、成功してもしなくても近隣の米農家と結果を共有する予定だと言います。

鶴田さんはカメムシの被害で黒くなった米をピンセットでひと粒ずつ取り出す手間をかけて出荷。
白米にするまでに肥料や農薬、人件費など経費がかかるため、以前の価格では採算が合わないのだそう。

鶴田さんの大好物、ピーナッツの苗

9月から10月にかけて出荷するピーナッツ。鶴田さんは約30年前から栽培を始めました。

3年前からは道の駅に出荷している生産者5人でグループを作り、植え付け時期を調整するなどして商品棚になるべく長く並ぶように工夫しているそうです。

ちなみにピーナッツは鶴田さんの大好物。茹でピーが最高だと笑顔を見せました。

ブドウ専業農家 一瀬 究さん

「ブドウと会話できますよ、私は。ブドウと話しながら作業してる」

一瀬さんは、出津地区の牧野でブドウを栽培する専業農家です。ブドウ栽培を始めたお父さんが3年後に急逝し、やりたくないと思いながら引き継ぎました。

それから約50年、今では品評会の上位常連で、今年も金賞を受賞。「ブドウは手をかけたらかけただけ応えてくれる」と、日々休みなく畑に立っています。

「ブドウづくりには『やれやれ』と思う時間はないんですよ。一年中、仕事」

「農閑期はない」と冬の間も毎日のようにブドウの手入れをする一瀬さん

繁忙期の7月8月も、一瀬さんはブドウを収穫するとともに木のケアを行っています。採るだけ採ってほったらかしにすると、翌年いいブドウがならないからです。

特にシャインマスカットのような種なし品種は、ある程度力を蓄えないと実がうまく育ちません。
そのため12月頃まで古い葉をできるだけ多く残し、無駄なエネルギーを消費する新しい脇芽を摘み取ります。そうして翌年に向けて養分を貯蔵させるのだそう。

一瀬さんは収穫しながら来年のブドウづくりを行っているのです。

「ブドウは鮮度勝負」

市場経由の場合、ブドウが消費者に届くまでに早くて3日かかります。

できるだけ新しいものを食べてもらいたいと、一瀬さんは『道の駅夕陽が丘そとめ』などの直売所へ直接出荷。
お盆前には朝採れを出しているそうです。

一瀬さんはシャインマスカットを中心に約20品種を栽培している

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 12

カナダに残る中町教会復興工事写真

中町教会堂は、カナダ・スカボロ宣教会のフレイザー神父が、北アメリカの支持者から費用の4割の寄付を得て、再建しました。
寄付を募るために撮った写真が、トロントの大学図書館に残ります。

宮崎広和博士から、「写真の裏にフレイザー神父と”Architect Kawahara”と書かれている」と連絡がありました。”Architect Kawahara”、すなわち大工で設計者の、川原正治さんです。
写真にフレイザー神父と並んで写っているのが、正治さんです。

今回の展示した中で一番大きな模型は、中町教会堂の明治時代の姿です。京都の大学院生、檜皮拓也さんの制作しました。ステンドグラスまで再現されています。
他の模型は、縮尺100分の1で作られています。
ぜひご覧になり、各地の教会堂を見比べてみてください。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 11

津和野教会堂が結ぶ縁/台湾における川原正治

津和野教会堂の建設は、正治さんが門司で時計屋を建て、それを見た津和野の信者さんから依頼だったそうです。門司の時計屋は、今もお店が続く、吉田時計店です。

上棟式の写真を見せてもらいました。
真ん中の背広を着た大柄な人が正治さんだと思われます。

第2次世界大戦中、正治さんは古川重吉神父と一緒に台湾に渡ります。

戦時中、ドミニコ会の外国人神父様が台湾の港町に滞在できなくなったため、長崎から行った里脇浅次郎神父様と古川神父様が台湾の教会を守りました。
1945年になると、里脇神父様自身も兵役に召集され、教会堂は爆撃で損傷しました。

里脇神父様と古川神父様は教会堂をできるだけ修理し、1946年に帰国しました。正治さんも、その修理に加わったと思われます。

里脇神父様のいた高雄教会、古川神父様のいた樺山教会を写真で紹介します。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 10

【パネル10】川原家に伝わる教会堂図面

伝次郎さんのご子孫の家に、黒崎教会堂の計画図面の写真が残ります。

封筒に入っていて、中町教会の大崎八重神父様から、黒崎の岩永神父様に届けられたものです。
封筒は再利用で、裏面はドイツからド・ロ神父様に届いたものです。
図面の教会堂は、出津教会堂の最初の姿の似ています。

したがって、黒崎教会堂の設計にド・ロ神父様が関わったことを裏付ける封筒と図面です。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 9

稲佐・中町・善長谷教会堂 — 戦後の再建

原爆の被害を受けた長崎では、戦後、教会堂の再建が行われました。

中町教会堂では、焼け残った明治のレンガの壁を活かし、鉄骨コンクリート造で再建されました。
中町教区の稲佐教会堂や善長谷(ぜんちょうだに)教会堂も、戦後に教会堂が新築されました。
善長谷教会堂は正治さんが最後に手掛けた教会堂です。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 8

八幡・戸畑・大牟田の教会堂

昭和初期、工業都市として発展した北九州や大牟田にも、川原家は教会堂を建てました。

八幡(やはた)教会堂や戸畑(とばた)教会堂では、正治さんの義弟で弟子の大石政吉も活躍します。
これらの教会堂は戦時中の空襲や接収によってわずか10年で失われましたが、写真や図面から当時の姿を知ることができます。

八幡教会堂は、津和野教会堂によく似ています。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 7

門司・津和野・新田原の教会堂

1930年の門司教会堂は、福岡教区の始まりを告げる存在です。
関門海峡を臨む山の斜面に、高い塔をもつ華やかな外観で建てられました。その姿は海峡の船からよく見えました。

この仕事がきっかけとなって、正治さんは津和野教会堂の建設を任されます。
津和野教会堂は、イエズス会の紋章を正面につけました。内部は平らな天井で、中央部分を高くして三廊(さんろう)式風に表現しました。

新田原(しんでんばる)教会堂は、以前の地名は京都郡(みやこぐん)でした。川原家では「正治さんは『みやこ』に行った」と言われていたそうで、これも3代目の教会堂です。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 6

山野・呼子・馬渡島の教会堂

平戸の山野教会堂は、天井裏の板切れに3代目・正治さんが建てたことが書き残されていました。
キリシタンの聖地、生月島(いきつきじま)を臨む場所に山野教会堂はあります。

1927(昭和2)年、カトリック福岡教区が設立され、福岡、佐賀、熊本県がひとつの教区になりました。川原家も福岡教区の教会堂を手掛けます。

呼子教会堂と馬渡島(まだらしま)教会堂は、紐差(ひもさし)教会堂の建て替えにともない、旧紐差教会堂が馬渡島へ、旧馬渡島教会堂が呼子へ移築されました。
馬渡島教会堂の塔は、移築のときに加えました。

「大工・川原家と教会堂建設」展 解説 – 5

旧大名町・神ノ島・黒崎の教会堂

2代目・忠蔵さんの時代には、レンガ造の本格的な教会堂が各地に建てられました。
旧大名町教会堂では、正面に三角形の壁を立ち上げ、レンガ積みをデザインとして見せる点に、川原家の特徴が表れています。

神ノ島教会堂や黒崎教会堂では、大規模な三廊(さんろう)式が採用されました。
黒崎教会堂は、長崎県で最後に建てられたレンガ造の教会堂です。3代目の正治さん、伝次郎さんも参加し、川原家の集大成ともいえる存在です。

この3つの教会は、三角の切妻屋根で玄関を手前に張り出し、内部は三廊式、半円のリブ・ヴォールト天井、そして天井を板張りにしてペンキを塗る点が共通しています。